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世界遺産・勝連城主 ってなわけで最近有名になっていると思いますが・・・(ってか、絶対なってるよ・・・。だって、今まで阿麻和利って検索かけてもそんなにたくさん出てこなかったもん・・・/苦笑)

尚泰久王時代に活躍した阿麻和利。
生まれは北谷間切りの農民。幼名は加那(沖縄では一般的な名前だったそうです。太郎みたいな感じ?)
屋良城主大川按司と間切り農民の娘との間に出来た子ではないかと言われています。
屋良城崖下のガマに捨てられ栄養失調のため、7歳。あるいは11歳まで歩くことができなかったが、ある時蜘蛛をみて投網をつくりだし百姓に魚を分け与えたと伝えられています。
モーアシビー(今でいう合コンみたいなの)を広めたのもこの人だと言われています。

阿麻和利は百姓仕事、日雇い、業府、船乗り、倭寇(苦笑)をした後に勝連城主モチヅキの馬の草刈りになったと言われています。
モチヅキ(勝連城主)の重臣(屋慶名赤/ヤケナアカー)に擁立されてクーデターを起こしました。まぁ、モチヅキの悪政に耐えかねて、宴にモチヅキを城壁から突き落としたっていうのが、勝連城奪取ストーリーなんですが・・・。

・・・・なんていうか、恩を仇で返したっぽいのがあるのは気のせいでしょうか・・・(ヲィ)

しかし、阿麻和利はおもろでしきりに絶賛されているようにまさに勝連にとっては天(あま)から降り(わり)てきた人。それで、阿麻和利と呼ばれるようになったと言われています。
志魯・布里の乱後、首里城が焼け、尚泰久王が即位。
泰久王が即位した後に、長女百度踏揚(当時美女と言われていた)を嫁に。座喜味城主だった護佐丸を中城に呼び、城を造らせ阿麻和利対策をしていたとも言われています。
それほど、阿麻和利の力が脅威だったんでしょう。
阿麻和利独自でも海外貿易を行っていた節もあり、勝連は琉球の鎌倉だとまで言われていたらしいのですが。でも、このときが絶頂期だったと思われます。

護佐丸・阿麻和利の乱(1458年)
簡単に説明すると、阿麻和利が護佐丸に謀反の兆候がありと首里に知らせました。首里は兵を派遣し、視察。中城城の兵は、阿麻和利対策に訓練を行っていたのですが、運悪く首里兵が勘違いしてしまい、謀反は本当だと王に知らせます。
王は、阿麻和利を総大将にし、百度踏揚の付き人(・・・ってか、付き人で男って・・・)鬼大城を副将にし、月見の宴の頃、中城城を攻めます。
そのときに、中城城の護佐丸は「三つ巴(首里軍)に兵を向けることはできない」と言い、自害したそうです。
この話は玉城朝薫の「二童敵討」という組踊りで有名ドコロなんですがね(笑)
さて、護佐丸を倒した阿麻和利は、首里への出兵に向け準備の最中に
妻・百度踏揚と付き人鬼大城に気付かれ、勝連を脱出、首里に急報。
ここで、首里に行く際に途中で阿麻和利に気付かれ、追われたという話しもあります。そして、首里王府についても、王が娘が夫意外の他の男とこんな夜遅くに来るなんて・・!!と激怒。百度踏揚の弟・八幡(後の尚徳王)に諭されるまで入れなかったという話もあります。

・・・・なんか、王府が攻められるかも知れないって時に不思議にのんびりしているような気がしますけどねぇ・・・。

さて、同年、そのまま首里王府が兵を挙げ、付き人・鬼大城を総大将として攻め入りました。
そのときに、なかなか落ちなかったらしく、鬼大城が女装(鬼って武芸の優れているとかそういう意味なんですが、その言葉通り、身体がすっごいでかくてごつくて、黒かったそうです・・・。やだよ。そんなのの女装)し、阿麻和利を討ったとも伝えられて居るんですが・・・。・・・・何故か、阿麻和利の墓は読谷村にあるんですよねー。不思議と、読谷村は護佐丸の座喜味城がある村です。皮肉なもんを感じるんですがねぇ。
それから、百度踏揚は鬼大城と結婚。(・・・ってか、泰久が王になるまえから、この2人は恋人同士だったんじゃないかってウワサもあったそうです・・・・)

しかし、金丸(尚円王)のクーデターの際に、旧政府の役者、鬼大城は知花城で王府軍に攻められ自害しています。百度踏揚はそれからひっそりと暮らしていたようですが、若くして亡くなっています。

なんていうか、まだまだ謎だらけな感じですよねー。古琉球。
個人的に志魯・布里の乱が気になります。・・・そのときに金丸(尚円王)も首里に居たっていうのが特に気になるんですよねー。
個人的には、尚思達に仕えた時点(最初は越来で泰久に仕えていたのだけど、思達が王位を継いだとき、泰久が金丸を首里に出した)で金丸の中には第二尚氏の構想があったんじゃないかなぁって思って居るんですが・・・・。・・・・すっごい偏見的ですよねぇ・・・。でも、頭良いからそこまで考えて行動してそうなんですよねー。金丸って(偏見)

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吉屋ちるー(1650~1668/記念碑によれば)
沖縄の女流歌人です。結構、有名なんですよねぇ。20首余りくらいしか唄を残していないのに・・・!
彼女につきまとうイメージは、彼女の人生からか「薄幸」
でも、美人で頭が良かったのです。多くの首里士族がメロメロになったくらいですから。
彼女が歌う琉歌(8.8.8.6形式の和歌みたいなもの。でも、この琉歌って全部三味線に乗せて歌うことができるんですよ/笑)は抒情的なのが多いのが特徴的。

1650年にムラオサの娘として生まれて、父親が借金の連帯保証人になり、ちるー(鶴)は8つの時に那覇の遊郭へ売られました。そのときに歌ったのが「恨む比謝橋や」という歌。
8つの時に歌い上げたとしたら見事ですよねー。
今ではその橋に記念碑が建っています。
この橋の近くの民俗資料館には結構詳しい資料が残っているそうですが・・・・(・・・今も残っているかどうか/ヲィ)
さて、遊郭に売り飛ばされた彼女はある青年士族(お客さん)と恋に落ちます。しかし、身分違いのかなわぬ恋を嘆き、19のとき、自ら食を断ち自殺をしたといいます。
数え年(生まれたときを1歳として、新年がくれば1つ年取る)19なら、今なら18、17くらいじゃないかなぁと思うんですが・・・。
ちなみに「吉屋」っていうのは、遊郭の名前だそうです。
だから、「吉屋」のちるーってなるわけですよね。
っていうか、本当にこの人、「薄幸」な感じしかイメージが無いんですが・・・(汗)


女流歌人っていったら、恩納ナビーも有名ですが、彼女は1700年代の女流歌人です。恩納村の農民の娘。おおらかで、たくましい琉歌が多いです。有名なのが「恩納岳あがた」という歌。この森を押しのけて愛しいあの人に会いたい!!ってな歌なんですが。他にも恋のためにおおらかかつスケールの大きい歌が特徴的。っていうか、見事にちるーと対照的。明るくて、おおらかで、ハイビスカスとか似合いそうな村娘。沖縄のおばあの娘バージョンみたいな感じだと思います。

どっちの歌人も沖縄に強く影響していますよね。
っていうか、個人的に昼(ナビー)と夜(チルー)のイメージ・・・(ヲィ)

人間の行動原理は嫉妬である、みたいなことを細川重賢が言っていたらしいので、なんかこの人すげぇって思いました。
かっこえぇよ。細川重賢。財政を立て直した彼の手腕に惚れ惚れなんですけどねー。じり貧暮らしから、財政を立て直し、学校を作る手腕。すっごい素敵。
大名で一番好きな大名は誰かって言えば、この細川重賢がトップ。
僅差で、大谷吉継。そして、次に森長可。別名、鬼武蔵。家族思いの鬼武蔵。家族思いってなんか好き。
大名じゃなくて、サムライで言えば、橋本左内も好き。坂本竜馬はもちろんなんですがね。陸奥宗光もお気にです。
なんで、歴史ってカッコイイ人が多いんだろう(笑)

沖縄版なら、阿麻和利・護佐丸も好き。マイナーながら鬼大城も結構好き(笑)尚巴志もさることながら、志魯・布里も興味あるなぁって思ったり・・・。・・・・・少ないんですけどね。資料が(苦笑)


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